左利きの融心さん

御先祖様を探し始めた若僧です

番外編

お題「わたしの宝物」

 

私の宝物。そうですね…宝物はたくさんありますが、私の1番の宝物は"メモ書き"です。

いろんな人から頂いたメモ書き。

 

例えば、机の上にお菓子が置いてあって、その横に付箋紙で書かれた書き置きや、プレゼントについていた小さな手紙です。

僧侶になるための修行に必死で挑んでいた頃に、先輩僧侶から頂いたアドバイスが書かれたメモ書きもあります。

 

私は、その小さなメモ書きを小さな缶に入れて持ち歩いています。自分を応援してくれたり、自分の事を想ってくれている人たちのその気持ちを大事にしたいのです。それは私が頑張れる材料にもなるし、きっといつかプラスにはたらく物だとおもっています。

 

もう缶もボロボロになってしまいましたが、私の大事な宝物です。f:id:syaken1526:20221101083408j:image
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家系図作成記その14(ハイカラな曽祖母)

母親に見つかった曽祖母は、四国へ行くことになります。実母の再婚相手が四国の人だったからです。

その再婚相手、つまり私の曾曾祖父さんは広大な敷地と大きな権力を持っていました。

曽祖母は、自分の子供達と旦那を連れて四国で住み始めます。曽祖母は、養生に出された家の後継なので、苗字は大阪の家の苗字を名乗り、旦那を養子にしていました。

それなりに楽しい生活だったそうです。訳あって、岡山からは夜逃げする様な形で出てきたらしいのですが、それなりの生活をしていました。

しかしそこで、戦争が起きます。辺りは焼け野原になり、曽祖母や祖母の生活もガラリと変わるのでした。

それでもめげない家族は、いろんな商売をして立て直しました。その頃の生活は、それはそれは楽しかったと、祖母がよく話してくれます。

 

曽祖母の母親は、元々青森の立派なお家のお嬢様で、顔立ちも整っていて、素敵な貴婦人だった聞いています。曽祖母の姉も美しい方で、ある化粧品の広告のモデルになっています。なぜか双子の絵なのですが、それは、美人なその姉に見惚れた画家が、もう1人欲しい!と思い、2人にしたそうです。

しかし曽祖母は、確かに綺麗な方でしたが、やや上品さにかける人で、曽祖母の母はよく嘆いたそうです。

家系図作成記その13(ハイカラな曽祖母)

ご無沙汰しております。融心です。

しばらく忙しくて、離れていたのですが、毎日届く「スターがつきました」と言う様な内容のメールを見ていると、「読んでくれてる人がいる」「嬉しいな」と思い、これは書かなければと思い久しぶりに開きました。

 

お待たせしました。忙しくて更新がスムーズにいかない事も多いかもしれませんが、少しずつ書き綴って行きます。

 

 

曽祖母は、とてもハイカラな人でした。たくさんの化粧品にバッグに洋服、帽子、アクセサリー、煌びやかな物は全て持っている人でした。遺影の曽祖母も、快活な笑顔におしゃれな帽子を被った姿です。

 

曽祖母は、私が小学4年生に上がる年の春休みに亡くなりました。その時私は、人の死を初めて知りました。とても悲しくて寂しくて、でも泣いていいものか分からなくて、隣に立っていた父の顔色をそっと伺いました。すると父は大号泣しているではありませんか!私は大泣きしました。

 

曽祖母は、私の家のすぐ近くに住んでいて、祖母の弟一家と暮らしていました。私は毎日通いました。

少しお金を持っていた裕福な老人でしたので、毎日タクシーを呼びつけては、デパートへ繰り出していました。私はお子様ランチをご馳走になったり、お菓子を買ってもらったり、誕生日には巨大なクマのぬいぐるみのプレゼントを貰いました。私の両親は、「甘やかさないでください!」と怒っていましたが、「ビッグな子に育てるのよ!」と、大らかに高笑いしていました。そんな人でした。

 

曽祖母は、東京の麻布で生まれ育ちました。その後、訳あって大阪の八尾市へ養女に出されます。養女に出された家は発明家の家だったらしく、変わった家だった様です。

しかし、曽祖母が大人になった時、曽祖母の母が迎えにきます。曽祖母は、実母の再婚相手が気に入らず、何十回も家出を繰り返し全国を駆け回ります。そこで、岡山の片田舎で出会った男性と結婚します。しかし曽祖母の母とその再婚相手の男性はなかなか権力のある方で、すぐに見つかってしまいます。

家系図作成記その12(ハイカラな曽祖母)

祖父と、H家の事はよく分かりました。

私はなんだかもうそれで満足していたのですが、祖母から依頼が来ました。

「私の母親の家、つまりあんたのひいおばあちゃんの家は凄い家だった。それ先調べてよ。」

 

とのこと。

 

うわー、まだ私の母親の方も調べてないのにな〜…^^;

 

しかし、曽祖母は私が小学3年の時まで健在で、とてもお世話になった方なので調べることにしました。

家系図作成記その11(失踪した祖父)

本部の電話受付の方へ

謹啓

新緑の候、皆様ご清祥にてお過ごしのこととお喜び申し上げます。

この度はお忙しい中、祖父T彦についてお調べ頂きありがとうございました。御過分の心遣い恐縮に存じます。

祖母も、存命中にT彦のことを知る事ができ安心しております。

私自身は、僧籍のある身ですので、自身の手で御供養をと思っていました。しかし、祖父が心から信じ、波瀾万丈な人生の中で最後に本当に大事な人との繋がりや人の心の慈悲深さに気づいたからこそ、義理の母親と永代供養を申し込んだのでは無いかと思いやめました。本の憶測にしか過ぎないかもしれませんが、祖父の永代供養はとても大きな真事実でした。宗派や人それぞれ信仰するものは違えど、信仰心というものは綺麗で素敵な一生の宝では無いかと思います。私は祖父から、その綺麗な心を持つと言う遺伝子を引き継いだのだと思い、嬉しくも思いました。

コロナが収束しましたら、是非とも墓所へ参詣させて頂きたく思います。

末筆ながら、皆様の御健康と益々のご発展を喪心よりお祈り申し上げます。

 

融心

家系図作成記その⑩(失踪した祖父)

その団体はしっかりと管理がなされていました。祖父の入信の日から亡くなった日までありました。

祖父は家を出たときはまだ入信しておらず、なくなる10年ほど前から入信していました。入信から4年にはなかなかの階級を頂いていたようでした。祖父はお金を持っていましたので、恐らくかなりの額を納めたのだと思います。

 

ただ、お墓に関しては自分で立てていました。生前永代供養の申し込みをしていました。

もうM子や息子の所には帰れず、何があったのかは分かりませんが、同居していた女性とも最後は形だけの関係だったようです。

祖父は馬主もしていてかなり有名でしたが、その権限がその女性に移っており、きっと生活費やその他の金銭面での援助をしていたのだと推測しました。

最後はもう、頼れる人が居なかったのです。

 

さらに驚くことがありました。

 

祖父の永代供養に、もう1人一緒に入っている方がいりっしゃいました。

それは、血の繋がらないT彦の母親でした。みんなが家政婦だと思っていたが、実はH家と籍を入れていてM子のお姑さんだった方です。

 

この方、ほんと至る所で驚かせてくれます。

 

M子と別れ、違う女性と同居し、違う宗教に入り、ついにH家に戻れなくなったT彦の唯一の味方だったのかもしれません。それか、小さい頃から家の事をしてもらい、可愛がって貰ったお礼かもしれません。

 

何にせよ、義理の母親はT彦にとって最愛の大切な人であった為、自分の信じる宗教で永代供養を申し込んだのだろうと思います。

波瀾万丈な人生を歩み多くの人を悲しませ、若くして病死してしまいましたが、最後の最後には母親こそが自分にとって最大の大切な人だと思ったようです。1人になってしまい身よりも無くどうしようもない為、1番自分の信仰する宗教で生前から永代供養を申し込んでいたとの事。宗教は違えど最後は信仰心が支えになっていました。それまでの祖父の像が覆され驚いた私は、墓所の管理者に、

 

「今後とも祖父を宜しくお願い致します。」

 

とだけ言うのが精一杯でした。篤信であった祖父は今もしっかり供養されているらしく、コロナが落ち着いたら弟と一緒にお墓参りに行こうと思いました。

家系図作成記その⑨(失踪した祖父)

祖父が入信していたと言う宗教団体を見つけ、私は本部に連絡を取りました。

祖父と同居していた女性は、その団体の幹部だったらしく、その名前を辿って見つけ出しました。残念ながらその女性は亡くなっていましたが、祖父の事は分かりました。

 

私は、古くから伝わるお寺の修行僧です。大きな宗派で真言宗と言う宗派です。私の祖母の実家は代々真言宗で、祖父の家も代々真言宗でした。その為、新宗教と呼ばれる団体への先入観もあり、きっとT彦は最後、H家とも上手く行っていなかったのだろうなと思いました。

しかし私は僧籍がある為勧誘される心配もなく、また、特に先入観もありませんでした。その宗教団体は特に悪い事もしていないし、人の為に尽くし、神仏を信仰すると言う心を持っていると分かったからです。

 

本部の電話に出られた方はとても親切で丁寧な方でした。祖父について分かっている事を全て調べてくれました。

 

そして私は、祖父のお墓を突き止めることができました。しかしそのお墓に、あの女性は居ませんでした。施主(お墓を建てた人)もその女性ではありませんでした。